「NIKE」みなさんが知っている有名スポーツブランド。
ファッションやスポーツと日常のさまざまなシーンで見かける世界のトップブランドですが、実は創業から日本とかなり深い関係がありました。
この記事ではナイキ創業者のスニーカーとの出会いや日本とどう関係してきたのか解説していきます。
創業者とはじまり
ナイキは創業者のひとりフィル・ナイト氏が立ち上げたブランドです。
シューズビジネスへ興味をもちだしたのは大学時代からだったそうです。
彼はスタンフォード大学ビジネススクールというハーバード大学にならぶ世界屈指の難関校を卒業した秀才で在学中の突飛なアイデアからシューズビジネスが生まれたといわれています。
なぜ突飛なアイデアなのか?
フィルが大学在学時のレポートによると当時アメリカのカメラ市場はドイツメーカーの独壇場だったのですが、そのカメラ市場に日本のメーカーが参入しかなりの活躍を見せていたそうです。
そこでフィルが目をつけたのがランニングシューズ市場でした。当時この市場はアディダス(ドイツブランド)が一強でした。
カメラ市場も新参者が活躍していたことを知っていたこともあり新しく参入する可能性を見つけたのです。
カメラ市場でも人気だった日本ブランドに可能性を見出し、フィルが注目したものが日本のオニツカのタイガーのシューズでした。タイガーを輸入してアメリカ国内で販売すれば莫大な利益があるんじゃないかと考えたそうなのです。
なぜこの考えが突飛なアイデアと呼ばれているのかというと、、当時のアメリカでは陸上競技自体、バスケやサッカーと違いただ走るだけでなにが楽しいのかわからない人も多く人気がありませんでした。
いまでは健康のためにランニングやトレーニングしていたりありますが当時はあまり一般的ではなかったようです、、、
人気が無いものを輸入販売しても売れるわけない!
これが突飛なアイデアと言われていた理由です。
フィル・ナイト日本へ来日
フィルは自分のアイデアを実現するために世界一周もかねて日本へ来ました。
世界一周もかねて??
こう聞くとなんだ遊びのついでかーと思われてしまうのですが、当時1960年代はアメリカでも90%の人々は飛行機に乗ったことがない時代だったので航空費、旅費など考えると遊びで行けるようなものではなかったのでかなりの本気度合いです。
ハッタリでオニツカと契約!?
念願のオニツカとのアポイントはフィルとオニツカ役員4名とおこなわれました。これから付き合っていくかもしれない海外の会社ということもありオニツカ側からの社名を聞かれ、まだ会社も立ち上げていなかった青年だったので自身の陸上競技選手時代にもらった賞状についていた青いリボンを思い出し、とっさにブルーリボンという会社を名乗ったとゆうエピソードがあります。
オニツカ側から市場規模の質問があった際も、何も知らないフィル青年はアメリカでのシューズ市場は10億ドル(1960年代当時1ドル=360円 日本円で3600億円)とハッタリを言ったりかなりハチャメチャなことを言っていたそうです(笑)
浮足立つオニツカ側から代理店になってくれとオファーがあり手付金50ドルで契約に結びつけたフィルは帰国しオニツカの販売へと動き出します。
アメリカへ帰国。伝説のはじまり
帰国後1964年1月フィルのもとに12足のタイガーのサンプルが届きました。
フィルはサンプルを大学時代の陸上コーチのバウワーマンのところへ持っていきました。
バウワーマンはオリンピックのコーチを担当したり陸上業界でも有名なこともあり彼からいい評価をもらえることでオニツカの勢いがつくと考えたそうです。
彼からの評価が今後の命運を握っている。そんななかなんとバウワーマンからフィルのオニツカ輸入事業を手伝いたいと声があり心強い仲間とブルーリボン社は2人体制で動き始めたのです。
その後300足を仕入れ即完売と快進撃はじまるのです。
まとめ
フィルのスニーカーとの出会いから青年ならではのハチャメチャな行動。
ここまではスニーカーとかかわりはじめたきっかけのエピソードをご紹介させてもらいました。
次回以降はここからどうナイキの創業につながっていくかご紹介していこうと思ってますのでぜひ楽しみにしていて下さいね!
もっと知りたい!!という方はこちらの書籍かなーりおもしろいのでぜひ買ってみてくださいね!